![]() | マイノリティの名前はどのように扱われているのか―日本の公立学校におけるニューカマーの場合 Lilian Terumi Hatano ひつじ書房 2009-05 売り上げランキング : 301671 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
著者はブラジルの二世で博論もの。両親とは日本語で会話するということは、戦後移民の家系かな。日本の学校に通うブラジル人とペルー人の子弟の名前がどのような表記で記録されているかを調べたもの。この在日ブラジル人の教育問題は何故か世界的関心を呼んでいる様で、英文でも多くの論文がヒットする中、名前に特化したものが見当たらなかったので、これに取り組むことにしたのだという。どうも開放的で民族的多様性を誇るブラジルから閉鎖的で「単一民族」の国に移民するという世界でもあまり例を見ない現象に興味をかき立てられる研究者が多い様で、その問題が如実に表れる子どもたちの教育問題に関心が集中している様だ。例によって日本人の「単一民族幻想批判」がお約束の如く繰り広げられるのだが、今時、日本のマトモな研究者で日本人単一民族説を唱える者などいるのだろうか。むしろ「日本人単一民族幻想」は日本人に対する外国人の偏見として信じ込まれている様な気がする。集団意識と並んで日本人のステレオタイプとして、また自国の寛容性を前提とした優越感から批判の対象として都合が良いものなのだろう。社会や個人の性格としてブラジルが日本より開放的なところは否めないが、国や教育のシステムが日本より開放的かというとそれは違う。著者は日本の学校がブラジル人の名前の呼び方に鈍感であるとし、ヘボン式の表記を求めた英語教師を暴力的だともするのだが、ブラジルでマイノリティの名前が尊重されている訳でもない。KやYを勝手にCとIに変えたり、ブラジルで日本人の名前が役所において、いい加減な表記で登録されたりしているのは著者が指摘している通りではないのか。日本人はポルトガル語の正式な発音はできなくとも、誠意をもって歩み寄るべきとする一方、ブラジル人の名前の多様性を誇るのはフェアではない。ブラジルの学校でも日本名が呼びづらくて、教師がお前はパウロ、あんたはマリアとか勝手に命名して、それが日本人のポルトガル語名になるのはよくあることだ。著者は自分の名字にしても「アターノ」ではなく「ハタノ」だと異議申し立てをしているのだろうか。「ヒオ・デ・ジャネイロ」の表記に拘っている様だが、日本語では「リオデジャネイロ」が定着している。ブラジルで「トーキオ」ではなく「トーキョー」だとでも言ってるのだろうか。こと名前や表記に関してはブラジルの方が日本より同化圧力が強いとも思う。いずれにしても子どもが自ら日本名の使用を望んだ場合、それを批判して日本人の「単一民族」幻想のせいにするのはお門違いであって、子ども自身のアイデンティティは尊重されて然るべきではなかろうか。


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