![]() | テヘランでロリータを読む (2006/09) アーザル ナフィーシー 商品詳細を見る |
すっかり有名になってしまった本だが、全米で大ベストセラーというのもさることながら、タイトルだけでも圧勝したというところもあるだろう。読んでみて、これは「小説」であるということは分かったのだが、著者の意図も自分なりの「英文学」を書いてみるというところにあったのだと思うのだが、読者は、これを「ノンフィクション」と受け止めたことが、このブームに繋がったのではなかろうか。「テヘラン」と「ロリータ」、つまり「イスラム原理主義」と「西洋退廃文化」という対比に白黒決着をつけたことを含め、この本はアメリカのイラン・イメージと齟齬を生じてはいない。アメリカのイラン・イメージは「米大使館占拠事件」のショックから抜けきれない「イスラム原理主義者」に支配された危険な国というものであるこては周知の通りなのだが、その一方で、シャー時代の親米的な世俗主義国家の時代の記憶があり、それを後押しする在米イラン人コミュニティーも強力なのである。言わば「革命」で「アメリカ的価値観」が失われたという意味でキューバと同質のイメージなのだが、その「喪失感」をテーマにしたのが、この作品であるという訳だ。文学のテーマとして「喪失感」が受けるのは、消費社会が進行している国でみられる村上春樹のブームをみても分かると思うが、「自分たちと同じ価値観を持った人間」を異国で見つけることは、読者にとってアイデンティティの再発見みたいな意味があるのだろう。この著者がシャー時代の価値観を体現した人物であることは説明するまでもないが、そこに「枷」が生まれ、文学的成功をもたらした側面もあろう。その意味ではソルジェニーツィンや戦前日本のプロレタリア文学と同じ構図なのだが、それが決して「告発文学」にならないのところは、著者の文学的素養とイランの文化水準の高さを表していると思う。
















